神聖木として高貴な『檜(ヒノキ)』
2023年7月10日『木』のお家と言っても、どんな木があって、どんな特徴があるかご存知ですか?
私は、今まで全く知りませんでした。
意外と知らないことも多く、でも知ることで家を建てるときに、その場所場所にあった『木』を選ぶことができますし、一つ一つ家に使われた木々に愛着を持つことができると思います。
経年が魅力の『木』を楽しむためにも、ぜひ、これを見て一つずつ知識が広げていき、見た目や雰囲気だけでじゃなく、自分好みの木材が選べるようになってもらえたらといいなと思います。
今回は、神聖木として高貴な『檜(ヒノキ)』についてお話しします。
ヒノキとは?
檜(ヒノキ)は、高さが30〜40メートル、直径は1メートルほどの常緑高木の針葉樹で、
材の色は、淡紅白色。肌ざわりはなめらかで、独特のつやと香りがあります。
強度にすぐれ、狂いが少なく、耐久性はトップクラスで、軽く柔らかいので活用範囲が広く、肌めが非常に緻密で、均質な材料が必要な用途に適しています。
心材は特に耐朽性が高く湿気にも強いです。
そのため、古代より建築材料として重用されてきました。
現在の住宅でも、柱・土台・梁・桁・床・母屋・鴨居・敷居などさまざまな部分に使用されています。
また、建具、家具、風呂桶、工芸品、彫刻などにも使用されます。
スギに比べると、やや乾燥した土地を好みます。ただし、スギよりは生長が遅く、手入れも多く必要とされています。
木曽(長野県)をはじめ、東濃(岐阜県)、吉野(奈良県)、尾鷲(三重県)、紀州(和歌山県)、土佐(高知県)、美作(岡山県)、静岡県などが産地として知られています。
【樹名】 |
ヒノキ |
【科名】 |
ヒノキ科ヒノキ属 |
【心材の色】 |
帯黄白淡褐色 |
【辺材の色】 |
淡黄白 |
【産地】 |
福島県東南部以南の本州、四国および九州 |
【加工性】 |
木質が軽軟なため容易 |
【主要用途】 | 構造材、造作材、家具材、建具材 |
【有名箇所】 | 長野県木曾・岐阜県裏木曾・木曾谷 |
【生えている場所】 |
山の中腹から尾根筋の斜面 |
貴重な材木 ”ヒノキ”の歴史
太古の昔、日本人は森に住み、森から食料を直接得たり、木々の貯えた豊かな水は「森のダム」として人々の生活を潤し、稲作農業を可能にしました。そして、四季折々の自然の美しさや厳しさ、森林や大地からの恵みの大きさが、日本人の自然に対する祈りの心を育んできました。
このような中で、わが国は独自の林業及び木の文化を発達させてきました。
そこで、日本人にとって無くてはならない木材として使われるようになったのはいつ頃の話でしょう。
遺跡から出土する木材の樹種を全国的に調べてみると、
ヒノキの木材は、スギの丸木船が出土したことで知られている福井県三方郡三方町の鳥浜貝塚遺跡が最も古いそうです。
縄文時代
この遺跡では、縄文時代の草創期から前期にかけて(約1万年前〜6千年前)の地層から出土した自然木(昔の人々が利用した痕跡のない木材)約3200点のうち20点がヒノキでした。
この遺跡で人々が利用した木材の中で最も古いものは約1万年前の杭でわずか2点ですが、約6千年前の縄文時代前期になるとたくさんの杭、板材、そしてスプーン状の木器、また彫刻のある細長い板などがあり、生活に密着したヒノキ材の利用が既に見てとれるようになっていきました。
しかし、ヒノキ材の木材利用は縄文時代を通して他にはあまりありません。ヒノキ材が他の木材より特に利用されるようになるのは、弥生時代になってからでした。
弥生時代
弥生時代の中期になると木材資料はやや増えていき、後期ともなるとどの遺跡からもヒノキ材が出土するようになり、板材などに加え、高杯・木棺・鳥形などさまざまに利用されたことがわかります。更に時代が下って古墳時代、そして歴史時代にはいるとこれは更に顕著になり、奈良・平安時代ともなるとヒノキ一辺倒ともいえる木の文化が開花します。
古墳時代を経て大和朝廷が成立し、近畿地方にその王都を造営するようになりますが、中国からは仏教のみならず政治・行政のシステムと文化をも取り入れました。中国をまねた王都造営にあたってはこれまでにない大きな建築物が数多く建てられ、そこには大量の木材が用いられ、その主要な部分がヒノキでした。古代の最大の都と言える平城京の建物の柱の樹種調査では、約6割がヒノキ、3割がコウヤマキでした。
この時期、ヒノキは柱材などの建 築材ばかりに使われたのではありませんでした。
箱もの・指物・家具など、曲物・折敷・ 桶など、木簡、それに斎串・人形・刀 形などの祭祀具などにはほとんどヒ ノキが使われていました。
木一本、首一つ
また、戦国時代以降、木材消費が急激に増加する中、木曾の木材は昔から良質で、江戸城の築城や造船、土木用材等、様々なところで利用され、木曾はヒノキの産地として注目されてきました。そして、「木曾式伐木運材法」などの技術を発達させてきましたが、技術の発達とともに木材資源の枯渇の危機から、森林保護政策として「停止木制度(ちょうじぼくせいど)」を設け、ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止しました。
停止木制度は、ヒノキの保護を目的とし、ヒノキに外観が似て、かつ利用価値の高い樹種も禁止木に選びました。禁止木を伐採した者への罰は、「木一本、首一つ」と呼ばれるほどで、厳罰に処されました。
森林保護制度によって保護された樹種は「木曾五木」と呼ばれ、現在は木曾谷の名産品となっています。
天然ヒノキと人工林のヒノキ
ヒノキの植林は各地で盛んに行われていますが、天然ヒノキの群生地は木曾谷以外にはほとんどありません。
大半のヒノキは植林材です。
天皇家の御料林と、伊勢神宮の関係者が社木の最大規模の管理組織で、これが木曾谷にヒノキが純林として残っている主因です。
日本人の天然ヒノキに対する愛着は深いものがありますが、どんなに厳しい森林管理をしても資源は枯渇する一方です。
木曾地区では、林野庁が伐採後の山に間髪を入れず植林をしているので、面積比率からみると木曾の山は天然林とはいえず、むしろ梢林地区になってきています。ヒ ノキはスギに比べて造林された若木でも需要があるので、ヒノキの植林がスギよりも多くおこなわれています。 その他の産地でも植林に力を入れていて、三重県の尾鷲地区、奈良県の吉野地区、静岡県の天竜地区が建築材の有名ブランド産地として知られています。
植林されたヒノキでも下枝打ちなどの管理を丹念にしながら育て、100年以上の長年月を経ると、表皮に近い 部分から急速に年輪幅が詰まり天然木のような木理を呈してきます。
ヒノキの強さ
古い神社やお寺に使われている柱などを調査したデータによれば、ヒノキ材は伐採されてから200年くらいまでは、圧縮・曲げなどの諸強度はやや上昇し、その後は緩やかに減衰し始めます。衝撃曲げ吸収エネルギーは伐採後300年までの間は30%ほど低下するものの、それ以降においてはほとんど変わらないという学術報告があります。
同じく寺社に多く使われているケヤキ材は、 伐採後300年辺りから急激にセルロ ースの崩壊と結晶化が始まり脆くなるので、ヒノキよりも耐久性が乏しいといわれています。ヒノキはあらゆる面から見て最高の構造材といえます。
天然ヒノキは仏像彫刻に多く使われ、国宝になっています。春慶塗の木地、櫛、木槌、道具の柄、梯子、額縁 などの小物の用途があります。ヒノキの枡は有名で、1升枡は江戸時代の計量器具の中でも一番多く使われていた道具です。
ヒノキにまつわる神話
むかし、出雲の国(現在の島根県)に、
ひとつの体に頭が8つ、尾が8つある大蛇
ヤマタノオロチがあらわれました。
その大きさは8つの山と谷を渡るほどで、
背中はコケにおおわれ、
スギ、ヒノキ、クスノキの大木が茂っていました。
ヤマタノオロチは、
毎年あらわれては村の娘を襲っていきます。
それを知ったスサノオノミコトという神様は
「8つのおけに酒をいれて置いておきなさい」と村人に命じました。
そしてその夜、ヤマタノオロチがあらわれ、
酒をガブガブと飲み、酔っぱらって眠ったところを退治しました。
ヤマタノオロチを退治した後、スサノオノミコトは、
自分のひげをぬいて土に散らすと、なんとスギの木に変わりました。
さらに、まゆ毛はクスノキ、胸の毛はヒノキ、尻毛はマキに。
「スギとクスノキは舟、ヒノキは宮殿、マキは棺桶にしなさい。」と命じました。
とても面白い話だったのでご紹介しました。
「日本書紀」で描かれたこのお話は、土石流を大蛇のヤマタノオロチに見立てて、
植林や木の使い方を後世に伝えていきました。
今も昔もヒノキは高級建材として考えられていたようで、
実際に、日本ではヒノキは法隆寺や伊勢神宮をはじめとした神社仏閣の神聖木として使われてきました。
ヒノキでつくる
神聖性、美観性、耐久性の全てを兼揃えたヒノキは、多くのものに使われています。
ヒノキは木造住宅の中で構造材から内装材にまで幅広く用いられています。
「水に強い」という特性を活かし、フローリングの床材や檜風呂などに活用されることもあります。
丸晴工務店では、水に強いということだけでなく、50年60年、、、と末長く住い続けていただきたい。
その気持ちから、ヒノキ材で強度のある柱を、経年変化を楽しめる柱や床を使い続けています。
まとめ
参考文献:「木材大辞典」「日本書紀」「木の文化」
参考文献:中部森林管理局 https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/kiso/morigatari/kisogoboku.html